すべては神の御心のままに

 人は、自らの人生を主体的に決定できるか。

 デカルトは「唯一良心だけが平等に分け与えられており、争いが起こるのは良心の使い方を誤っているからである」と残した。ウィトゲンシュタインは「人生の意義は、本当に幸せになること」と言っているが、同じようなことを古代ギリシアアリストテレスも同じようなことを言っている。アリストテレスに言わせると‘幸せ’とは‘人間がその能力を最大限発揮していること’らしい。それと同時に人間は社会的動物だから、善き人生は善き社会によって与えられる。それを実現するために、アリストテレスは公共の善の必要性を説き、その師匠であるプラトン哲人政治を唱えた。方法こそ違えど、二人の目指すものはより善き社会の実現であると言える。

 この本だと、その先はコミュニタリアニズムに行き着くのだけど、そこは省略。ところで、官僚や政治家センセイ、強い影響力を持つ財界人らによって作り上げられた今の社会は果たして、善き社会と言えるだろうか。心無いものが力を持つとろくなことにならないことを、先の選挙で下野した某政党が教えてくれた。人間は本当に善き社会を実現できるのであろうか。ヘーゲルの言うように、成熟した社会が人間を絶対知に導いてくれるのかもしれない。しかし、その社会の作り手が不完全な人間*1である以上、それは不可能だとボクは考える。

 人間は二つの要素の中で絶えず変化しながら生きている。一つは先天的な遺伝的要素。もう一つは後天的な社会的環境要因。これらが行動や精神に大きく影響を及ぼし、時に適応出来ずに逸脱してしまう。まさしく、その状態にボクはいるわけで。人間には起きた現象に対し、その原因を探す習性があるらしい。だから、ボクは必死に犯人捜しをして、「確かにボク自身にも問題はあったけど、あの耄碌ジジイだって……」と結論づけて恨み辛みに嵌るわけだけど。でもね、まったく関係のないことを原因とこじつけてしまうことも大いにあり得る。

 ボクが一つ引っ掛かったのは、一番最初に言ったように、「人は自らの人生を主体的に決められるのか?」ということ。行動と精神に影響を及ぼす二つの要素は一体何によって決定されるのか。ボクが辿り着いたのは、神様の存在*2。人も自然も存在する以上は何らかの目的があるはず*3だ。可能態から現実態へ移り変わるこの世界において、その運動には原因があって、さらにその原因、そのまた原因と遡っていくと、最終的に究極的な原因に辿り着き、それこそが神様なのである。

 つまり、ボクの生き方は神様のシナリオによって決められていて、こうなるのも予定調和。だから、ボクが自殺に惹かれるのも必然であって、それを周りがとやかく言ったところで何ら問題ではないし、周りのその行為ですら決められた筋書きに他ならない。世の中には、事件や事故で突然死に見舞われる人もいる。それに比べたら、自殺衝動を通して神様はボクの行く末をそっと耳打ちしてくれるようなもので、ずいぶんと良心的なようにも思う。万が一、それがボクの思い込みであったとしても、神様の組み立てたストーリーから逸脱することは許されず、自殺未遂に終わる。ただ、それだけのこと。そう考えると、ボクは神様のサイコロ遊びの忠実な駒として振る舞えば良いのであって、その行為に理由なんか必要ない。

 問いに対するボクの結論は、否である。‘針の振れ幅’は既に決まっていて、その中で揺れ動いているに過ぎず、必死に抗ってみたところで神様*4を前にしては叶うはずもない。この世界に産み落とされた時点で、既にナグルファルの船の上。その船上から見上げる星空は、カントが見た景色と同じはず。星空と内なる神の声に包まれて、ボクはラグナロクを向かう途中。

*1:官僚や政治家がということでなく、全ての人間自体が

*2:もっとも、怪しい宗教にのめり込んでいるわけでもないし、宗教にはどちらかと言えば懐疑的。ただ、お稲荷様は別。お稲荷様が存在したら、それはきっとファンタジー、素敵なことだ。

*3:アリストテレスの四原因説

*4:散々「神様」を連呼しているが、イメージとしては全知全能の人物よりも世界の理とか大きな流れといった風が正しいのかもしれない