気まぐれすーさいど4

「春のすーさいど☆ふぇあ」、最終日です。


 若きウェルテルの悩み/ゲーテ岩波文庫

 親友のいいなずけロッテに対するウェルテルのひたむきな愛とその破局を描いたこの書簡体小説には、ゲーテ(1749‐1832)が味わった若き日の情感と陶酔、不安と絶望が類いまれな抒情の言葉をもって吐露されている。晩年、詩人は「もし生涯に『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と語った。

 質問に答えていくと5つの尺度に基づいてグラフが描き出される、エゴグラムという性格診断がある。これをやる度にボクはW型のグラフになるのだけど、このパターンは通称「若きウェルテルの悩み」型と言われている。そんなことから名前くらいは知っていたけど、読んだことは無かったので、折角ならばと手に取り、「すーさいど☆ふぇあ」開催に至った次第。

 シャルロッテに一目ぼれしたウェルテル、そして彼女の許嫁のアルベルト。しかしながら、ウェルテルとアルベルトは対立するどころか互いにその存在を受け入れている節があるので、かえってどうしようもなく不憫な結末に。昼下がりにやっている品の無い愛憎劇よりかはよほど好感が持てる。こほん、話が脱線したね。

 ボクという存在は、どのように知覚されているのだろうか。そこに存在する物体として? 否、ボクという存在は心の中に記憶として認識されている(とボクは思うときがある)。今までにボクと会ったことが無い人間からしてみれば、ボクという存在は存在していないに等しく、ボクの存在を価値づけるものは他者の記憶であって、そのものの存在ではない。ウェルテルが自殺した後も、きっとシャルロッテはウェルテルの存在を忘れることは出来ないだろうし、言い換えれば彼の存在に囚われ続けるのだろうね。

 自殺を考える人間に、思慮分別を求めたところで何も変わらない。それを思いつく時点で、ウェルテルの言葉を借りれば、「限界を越えている」のだから。アルベルトやシャルロッテに殺意を抱いたものの、最終的には自分を殺したウェルテル。そもそも、3人全てが幸せになることなど不可能な話であって、ウェルテルの自殺はシャルロッテへの一途な想いに他ならない。そこに良いも悪いも無く、「恋は盲目」ということだけ。

 結局は限界を越えるか、越えないかという話。ボクが存在している限りは、残念ながら限界を越えていないという話。本当に残念ではあるのだが。まぁまぁ面白かったものの、小難しい言い回しや古さを感じさせる訳で読むのが辛かった。「スーサイド☆フェア」なるどうかしてるとしか思えない企画をでっち上げたことからの義務感が無かったら、途中でなげていたと思う。

 「春のすーさいど☆ふぇあ」、おわり。