気まぐれすーさいど8

 もはや「春のすーさいど☆ふぇあ」というよりも、「自殺願望強化月間」と言った方が正しいような気もするけど…… 今日はこれ。

 異邦人/カミュ新潮文庫

 母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

 結末の「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心を開いた。」という言葉を、どのように解釈すればよいのか、頭を悩ませている。

 カミュの異邦人という作品は、昔から気にはなっていて、書店で手に取るものの買うには至らなかった。そうして長いことボクの記憶から失われていたものの、今回の企画にちょうど良さそうだと思い、ついに購入した次第。買った後に気づいたけど、主人公のムルソーは人殺しをして死刑になるものの、自殺はしない。購入した動機については「太陽のせい」とだけしておく。

 さて、結末の「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心を開いた。」という言葉を、どのように解釈すればよいのか、頭を悩ませている。

 ムルソーが人殺しをし、裁判にかけられてからというものの、ムルソーが自覚している「自分自身」と、断片的な出来事の記録や証言から社会が創り上げる「もう一人のムルソー」が乖離してゆく。特に恐ろしいと感じたのは、社会に組み込まれる以上求められる「あるべき姿」を演じる必要があり、それをしなければ社会から「異邦人」として扱われてしまう点だ。「異邦人」には、弁明の機会すら与えられず、都合の良いように創り上げられた方のムルソーだけが、この社会に存在することになる。

 カミュ自身は否定しているのだが、終盤の司祭に対するムルソーの反論は実存主義のそれである。人間は、演技を通して自分自身になんらかの意味を見出そうとするが、ムルソーはそれを冷ややかな目で見ている。前述の一文は、斬首刑が決まった後、独房で寝ているムルソーが夜空に輝く星の光で目を覚ました後の言葉である。「世界の優しい無関心」というのは、演技のしきたりを求めることなく、悠然とそこに存在している自然の人間に対する眼差しのことであって、逃れることのできない死もまた自然の流れに過ぎない。だからこそ、自身の死を控えたムルソーは養老院でのママンの振る舞いを理解すると共に、「異邦人」として憎悪の叫びを浴びながら処刑されることを望んだ。そのような死に方こそが、ムルソーにとっての生きるということだったのではないだろうか?