時間考

 哲学の授業でアウグスティヌスの時間論についてのレポート課題が出たことがあった。アウグスティヌスによると過去・現在・未来という3つの時間が存在しているわけではなく、正確には過去についての現在・現在についての現在・未来についての現在が存在しているらしく、これらはそれぞれ記憶・感覚・予期と言うことができる。
 そもそもの前提として、神は時間を超越した存在であることを示すための見解がこの「時間論」なのであるが。

 これから先は大した中身の無い戯言。

 ボクが思うに、時間というものはこの世界に産み落とされた人間に唯一与えられた財産だと考えている。いやいや、お金こそが財産だよという反論もあるかもしれない。でも、お金を得るための一般的な方法を考えると、一定時間自分の労力を差し出す事への対価であるからして、時間が形を変えたものと見なせはしないか。
 個々の人間には、生まれてから死ぬまでの時間的猶予がある。ただし、それがどれだけかを知ることは出来ないが。与えられた時間を元手に勉強なり仕事なりで自己実現の可能性を高めていく。そして、上手いこと事が運んだら満足するのだが、それも長くは続かずに新たな自己実現に向けて動き始める。人間が感じる幸福とは費やした時間に対する利子のようなものだ。
 ボクら一人ひとりは時間銀行の頭取であって、いかにして少ない元手でより大きな利益を得られるかを常に考えなくてはいけない。利益、すなわち幸福を得られないということは、これまでの時間の投資・運用が誤りであったということの裏返しに過ぎず、頭取としての責任が追及される。先行き不透明なこのゲームで確実に利益を上げろというのも無理難題な話ではあるのだが。
 勉強に励んでさえいれば幸福になれるというのは思い込みに過ぎなかった。確実に利益を上げられる運用先ではない以上、これ以上時間を投資することは出来ない。それは単なる先延ばしに過ぎないことは頭取である自分が一番よく分かっている。
 とにかく、世の中は不確実なのだ。利益を上げるためには一か八かの賭けは避けられず、成果を上げられなければ批判される。失敗した時点で、普通の人生を送ることすら許されないのだ。
 ゆえに、普通の幸せを追い求めるのは時間の無駄だ。普通の人間が絶対に選ばない時間の投資先こそが、普通じゃないボクにとって優良な投資先なのではないか。手持ちの時間がどれくらい残っているかは分からないが、ありったけの時間を死神様に差し出そう。
 あぁ、早く殺してくれはしないものか。