高坂原論3

■「悪意のない悪意」
 教授だって警官だって、嘘をつく。

 もちろんボクだって嘘をついたことくらいある。けれども、人に欺かれたときのあの何とも言えぬ胸糞の悪さを思い出しては、やはり嘘はつきたくないものだと思うし、実践しようと試みている。

 嘘の無い社会は実現可能か? これほどまでに嘘・偽りにまみれた社会に生きているボクら。嘘の無い社会は理想論に過ぎない。嘘をつかぬまいと心に決めたボクでさえ、無理な話だとは思う。嘘は良くないとはいえ、社会において必要悪なものだからそれを無くすことは出来ないのだ。

 ボクは思った。皆、人を騙す努力が足りない、と。嘘が明るみになったときのあの怒りや失望はそれが明るみになったがゆえに感じるものであって、嘘をつくならば極力それを悟られないようにするべきだ。これではボクの言いたいことが歪められかねない。ボクの言いたいのはこういうこと。同じ悪意でも、悪意のこもった悪意よりも悪意のない悪意の方がタチが悪い。

 どうして嘘が生まれるか。一つは嘘に対する認識の問題。もう一つは言語の表現の問題なのだと思う。前者は「嘘をつくこと=良きこと/悪しきこと」という意識の話であって、おそらく大多数の人間は嘘は良くないと答えるだろうし、そうであると願いたい。けれども、事実、思わぬ形で嘘をつくこともある。それはきっと後者の問題なのであって、適切な言語の表現を選択できなかったゆえに、認識と現実の齟齬が生じ、それが嘘となるのだろう。

 昨日の警官だって、「みんなチェックしてますよ」という言葉を何の気なしに発したがゆえに、それが事実と反した嘘になったわけで。
 教授の発言だってそうだが、あの人は傍から見ていて物忘れが多いという加齢の問題も加わり、結果としてボクを欺くことになったのだろう。皮肉なことに、ボクは氏と違って記憶力が良い方なのだ。だからこそ、理解ができない。ただ、自分もゆくゆくはああなるのかと思うとぞっとするけど、あの物忘れの多さは異常だと思う。
 ただ、悪意のない悪意だから許されるという訳では無い。これが理解できないのだが、結局自分の言葉に対する認識が甘すぎるのだ。言葉は表現手段としての武器にも、悪意の凶器にもなるうることを彼らは知っているだろうか?

 そうそう他人を騙そうなどという明確な悪意を持った人間はそれほど多くないというのがボクの最終的な結論なのだが、ややもすればこれもボクは騙されているのかもしれない。

 一文目はわざと扇情的な文言にしておいたので、最後に訂正しておく。自らの言葉に対する認識が不足した人間がたまたま教授や警官といった職業に就いた。ただ、それだけに過ぎない。