高坂原論8

■「俺ら煉獄さ行ぐだ」

主我も無ェ 客我も無ェ
自我もそれほど育って無ェ
友も無ェ 彼女も無ェ
めまいで 毎日くーらくら
生まれ落ぢ イド連れで
二十年(にじゅねん)ちょっとのこの人生
希望も無ェ 夢も無ェ
頭痛は一日一度来る
俺らこんな生(せい)いやだ
俺らこんな生いやだ
煉獄へ出るだ 煉獄へ出だなら
男(おどご)磨いて 煉獄で恋するだ

あえて元ネタを説明する必要もあるまい。

「これからをどう生きるか」について色々と考えを巡らせているのだが、太宰治芥川龍之介ら多くの文豪がそうしたように、30代半ばで自殺するのが最も素晴らしい人生なような気がしてきた。

最近は今まで目もくれなかった、いわゆる文学作品というものをちまちまと読んでいる。名作と呼ばれる作品は、一度読んでおくべき価値があるからこそ名作なのだと、完璧な理解は出来ないものの、作品の持つ重みと歴史を感じている。ボクは言葉というものにとても興味を持っている。人間の想像力の産物たる「言葉」を巧みに操り作品を作り上げる文豪。齟齬が生じないように「言葉」を積み重ねて自らの論理を表現する哲学者。真摯に言葉と向き合うその姿勢にボクは憧れ、惚れ惚れとする。なんて崇高なんだろうか。


先日、本屋に行った際に『工学部ヒラノ教授』という小説のタイトルが目につき、手に取ってぱらぱらと捲ってみた。「若者の研究に対するエネルギーを摂取し続けなければ成立しない職業」といったことが書いてあり、あの悍ましい化け物のもとから去ることができて、つくづく幸せだと感じる。加えて、ボクと関わった工学部の教授(2人)は名誉欲と虚言で成り立っていると過言ではない。ボクが許せないのは後者であり、ボクが尊敬を通り越して崇拝すらしている文豪・哲学者とは対極の存在ではあるまいか。

はっきりと言うならば、彼らに対してボクは殺意すら抱いている。法と言う規範と、人間臭い損得勘定によってその行為は抑えられているが。もし、ボクが教授を殺した後に大学にて飛び降り自殺をしたとしよう。大事なことなので強調しておくが、これは仮定の話、フィクションに過ぎない。これを取り立てて「あいつは犯罪予備軍だ」などと吹聴して回る輩がいるならば、よっぽど読解能力のない阿呆ということになる。さて、この一件に関して両者が地獄に呼び出され、閻魔様による審問が行われたならば、神に誓って(閻魔様の前で神様を持ち出すのも変な話だが)自分の行いについての正当性を主張しようではないか。もちろん、教授殺しを正当化するつもりはさらさらなく、「これこれこういう経緯でボクは彼らを殺したのです。つきましては、それ相応の罪を受ける所存でありますから、どうぞボクをお裁き下さい」と言うつもりだ。たった一つの嘘をついたがために、嘘をつき続けなくてはならなくなった彼らはどんな釈明をするのだろうか。きっと無様に自分の名誉を守るためにまた嘘をつくに違いない。そして、ボクはその傍らで無様な彼らを見下し、にやにやと笑っているのだ。

もっとも、ボクが恨みを持っているのと彼らを殺す価値があるかは別問題だし、やはりボク自身、損得勘定において行動するという人間臭さを捨てきれていない。ボクがそれを捨て終えた時に、果たして彼らはまだ生きているのだろうか。他殺はいろいろと面倒くさいので、やはり前述したとおり30代半ばでの自殺が最もスマートなやり方だと思う。


社会学の授業で準拠集団という概念が出てきた。準拠集団とは人が自分自身を関連付けることによって、自己の態度や判断の形成と変容に影響を与える集団を指す。個人は集団という媒介によって社会に組み込まれており、準拠集団は自己の相対化させる基準となっていると言える。ここ最近は「自己を相対的な存在に陥れることはアイデンティティの確立を阻害することに他ならず、自己の絶対化に努めるべきだ」と考えているのが、数年前に受けた一般教養の授業で『罪と罰』を題材にしてアイデンティティと共生について考えるというものがあったのだが、その時の試験問題を思い出した。「『罪と罰』の内容に触れながら、アイデンティティと共生についてあなたの考えを述べなさい」というもので、試験対策のノートを見返してみると、今の考えとは真逆の事が書いてあって驚いた。

要点を掻い摘んでまとめてみた。(これで全体の1/4くらい)

  • アイデンティティ:周囲の変化や差違に抗い、不変性や独自性を保ち続けようとするある種のホメオスタシス
  • アイデンティティの獲得:「他の誰でもない自分」と認識すること
  • 海が無数の水分子から成るように、社会は無数の他者からなる
  • 自分という存在も、他者からすれば社会を構成する一介の人間に過ぎない
  • 自己の絶対化は他者の否定であり、社会との隔絶・社会からの孤立を意味し、結果的にアイデンティティの喪失に繋がる
  • 他者という存在を通じて自己と言う存在を確立することが、人間を含めた自然の多様性の受容であり、「共生」への第一歩である

罪と罰』において、ラスコーリニコフは自身をナポレオンと重ね、自己を絶対化することで高利貸しの老婆殺しを正当化し、実行した。結局は、法の抑止力はその行為を割に合わなくするというのが根底にあるが、自己の絶対化による自らの正義に基づく行為(それが他人から見て到底正義的と言えない場合でも)の前では無力なのだ。


誰しも、死は免れないのだ。だから、わざわざ自分の矮小な正義感を振りかざして社会的な非難を浴びてまで教授殺しを実行する必要など、全くもってないのだ。あくまで、末梢的な自分の正義感の適応をむやみに拡大するべきではなく、自分に留めておくべきで、自殺ならばその範囲内に収まる。

30半ばの自殺、正確に言うと干支がちょうど3周りし終える35歳の最後の日なんかが良いのではないだろうか。しかしながら、ボクは心配性だなとつくづく思う。まだ10年以上も先の話なのに、今から足が震えていてはどうするのだ。


やはり、ボクは死にたくはないし、幸せになりたい。でも、どうすれば?