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■あるいは自殺を肯定するための屁理屈

参考図書の講読に入る前に、自身の死生観を明確にするとともに幸福で本質的な生の実践の妨げになっている障壁を明らかにするために、現状と自己の分析を行う。

 人生のおける幸福を決定づける要因の一つが「いかに自分の死を受け入れられるか」なのではないか。死は忌々しいもので、日々の健やかな暮らしや場合によっては富や地位、名声を得ることが幸福だという反論もあるかとは思う。一見すると相反する意見のようだが、根底の部分ではボクの推論と本質的には等しくて、願望が叶い、欲望が満たされた場合には、最期において人生に未練を抱くことなく死を受け入れられるのではないかと。
 生きとし生けるもの、死からは何人も逃れることができない。自分という存在の終焉を恐怖として捉るよりは、生きているうちに死を受け止めるための準備をしておいた方がよほど有益な時間の使い方ではないか?

 一方で、前述のような円満な死もあれば、病や自殺による人生が未然な状態で訪れる(または迎え入れる)死もある。自殺もある種の病に起因するものだが、精神的な不具合に投薬や種々の療法が効果的に作用するとは言えない。というのも、自殺を誘発する希死念慮は精神の病とみなすこともできる(ボクはその状態もある意味では自然なことだと思うのだが)が、死生観や人生観といった個々人の魂に起因する精神活動でもあり、なかなか対処が難しい問題のように思える。

 ある人から「キミはどうして死に急いでいるの?」と問いかけられ、ここ数日自分なりに思いを巡らせてみた結果、次のような結論が導き出された。今までのボクという存在は、ほとんど人生における成功経験がないのだ。進学にせよ、就職にせよ、人間関係(恋愛に至ってはそもそも経験がないわけで)にせよ。思うようにいかない、挫折だらけの人生なのだ。もちろん、ボクというプレイヤーが易々とクリアできるような難易度設定に人生というゲームの開発者がしているとも思わない。が、ここ数年は特に上手くいかない。
 どん底から抜け出せるきっかけになるかもしれないと思い臨んだ大学の第二外国語スピーチコンテストは本番で大ポカ(練習では完璧だったのに!)をやらかし、院に進学して教授連中の陰湿な仕打ち(ボクが思ったところ悪意を持っていないところが余計タチが悪い)で辛酸を舐め、最終面接で面接官からたいそう持ち上げられた後、3週間の放置プレイの果てにお祈りメール。どん底から抜け出そうともがけばもがくほど、深みにはまってゆく。ゆっくりと不幸の沼に沈みながら、「いっそなるようにしかならないのだから、もうもがくのはやめよう」と思っていると、心の闇を餌食に希死念慮がむくむくと育ってゆく。「あぁ、自殺も悪くない。いや、もしかしたら素晴らしい選択肢かもしれない」と感じたのだ。

 ここで問題になるのは、本能的に身体はその機能を維持しようとし、精神機能のうちでも理性は自殺には歯止めを掛けようとする。ボクを自殺に仕向けさせるのは欲望のみであって、これでは分が良くない。そして何よりいけないのは、この期に及んでもボクは自らの生に完全に絶望しきれていないことなのだ。生に対して完全に絶望しなければ、死に対する希望と自殺という行為が真の幸福をもたらすという確信が得られない。まったく困ったものだ。
 他にも乗り越えなくてはならない障壁はあって、ボクが小心者であることもその一つだ。明確な意思の下、その計画を他言することなく実行し、成し遂げる。これが理想的な自殺の方法だとボクは考えている。にもかかわらず医師やカウンセラー、さらにはお世話になった先生にまでこの悩みを打ち明けている時点で、生の未練を断ち切れていないことは明らかである。
 これも関係していると思うのだが、震災を通じていかにボクが社会や人間に幻想を抱いていたかを思い知らされた。悍ましい人間どもが巣食う、歪んだ社会。ボクの認識が正しいのか、それとも誤っているのかは分らない。けれども、ボクを取り巻く環境はと違和感だらけの生きづらいことは確かなのだ。それをボクは正そうは思わない。なぜならば、ボク一人で正せるようなものではないし(もっと言えば、ボク一人で背負い込むというのもおかしなことだ)、ボクが消えてしまえばこの問題はすべて解決することだから。ボクが居なくなったとしても、社会には何ら影響は及ぼさない、ちっぽけな存在に過ぎないのだ。

 漠然とそこに存在し続けることは、果たして本質的に生きていると言えるのだろうか? 理性と欲望の間で葛藤しながらも、選択と結果を繰り返した軌跡こそが人生となる。
 ボクにとって自殺とは、人生における輝かしい成功体験になるはずのものなのだ。ボクはそう信じながら、ボクの死を夢見ている。