#3
■「自殺について」講読(2)
◆生の空しさに関する説
時間的な生存を意欲すること、しかもそれを永続させようと意欲することが、つまり、生なのである(p25~)
- 時間的存在の延長こそが私たちの罪つくりのもとである
- 時間的存在は、これを獲得したと思う束の間に、ふたたびあとかたもなく消え失せてしまうものであり、本質的に無常な決して永くは続かない
- 時間から脱けだし、経験的意識をかなぐり捨ててこそ、より良い意識がつかめる
生には、本質的に、悲惨な苦悩がつきまとっており、偶然が、これらざまざまの苦悩を振り当てる(p26)
- 生命がいかに恐ろしいものであるか、また、彼自身によって極めて恐ろしい行為がなしとげられることか、自分が、かような生命にどれほど執着しているかをもはっきり認めるのだ(罪を犯したものの心理)
時間は、ただ、根拠の原理の最も単純な形相に過ぎず、(中略)、客体には適用されるが、主体には適用されないものである、と(p29~)
- わたしたちは時間というものをわたしたちの生存から独立したものと捉えている
- その場合、二種類の「今」を仮定し、一つを主体に、もう一つを客体に所属させている
- 主体と客体の合致こそ「今」なのであって、時間は、物自体に属せず、単に現象のみに属する(カントの理論)
わたしたちの「自我」は意志と認識が組み合わさってできたものである(p33~)
- 意志:わたしたち本来的かつ原初的な本質をなし、みずからの「満足」・「不満足」とのほかには何ごともわきまえない
- 認識:意志の単一な主題を幾百万の複雑多様な模様に描き出して、わたしたちの「自我」の前へと見せびらかす
わたしたちは、一生を通じて、さまざまな情景に満たされている(p34)
- 前半生:遠いさきの未来に対して
- 後半生:遠ざかりゆく過去に対して
真実の唯一の在りかである現在は、かつて、わたしたちを満足させたためしがない(p34~)
- 生存や現実世界はただの仮象・意志の映像・単なる映像に過ぎず、物自体ではない(実体・実在性をもたない)のに対し、意志は実在であり物自体であるがゆえに満足を感じ得ない
過去の空しい幻影と、いまの身にしみる現実との間には、どういうちがいがあるのだろうか?(p37~)
- 表象の世界は真に実在するものではなく、実在を映しだす鏡に他ならない
- 真の実在は意志であり、いつまでも実在性を保っている
- 表象の領域内ではなんら差異がないが、或る程度の意志の働きが作用し、いくぶんの実在性が与えられていることにより、現実は身にしみて感じられるのである