高坂言論18

■12年後のボクへ
 ボクはどうやら中・長期的に計画を立てるのが苦手なようで、〆切間際で帳尻合わせばかりしている。裏を返せば、おしりに火がついて火傷する手前(この状態を個人的に‘しっぽに火がつく’と形容しているのだけど)でようやくやる気を出すスロースターターなのだとは思う。

 「若さ」とは「未熟さ」であることの免罪符に過ぎない。本来ならば「若さ」と引き換えにそれ相応の経験を手に入れ「成熟」していかなくてはならないのだ。万人に等しく与えられている時間をどのように運用し、最大限の利益を得るか。これが人生の本質のように思えてならない。
 自殺は早ければ早いほど良い。「若さ」を失った状態での自殺よりも、「若さ」を有した状態での自殺の方が美しいとボクは思う。前者の自殺は時間運用がうまくいかずにジリ貧に追い込まれた行く末というイメージがつきまとう。それに引き換え、後者の自殺はいくらか時間的な残高を残した状態で複数の選択肢の中から「自殺」という行為を選択しており、そこに主体性の欠片であるとか生に囚われない実存主義の実践があるような気がするのだ。

 ここで問題となるのは完全に「若さ」を失うのはいつであるのか?という一点である。こればかりはその人の気持ち次第なのでなんとも言えないが、具体的な年齢によって定められるものではないと断定しておく。もっとも、年齢を基準とした下らないレッテルを張りたがる愚民が多いことは憂うことであるが。

 時間的残高の余裕からか、本格的な自殺遂行に取り掛かってはいないが、準備だけでもしておいたほうが良いとは思っているのだ。では、その日どりをいつにするべきか。一つの目安として、干支がちょうど3回りしたころが適齢期なのではないかと密かに思っている。やはり太宰治であるとか、夏目漱石の「こころ」に出てくる‘先生’の影響を受けているのは否定できない。死をもって、人間は完成される。これは紛れもない事実なのだ。

 もちろん予定を前倒しすることは構わない(早ければそれだけ美しいからね)。12年分の時間的残高をいかに運用して自殺を有意義にすることができるか。腕の見せ所である。