#8

■「自殺について」講読(7)

◆生の空しさに関する説によせる補遺

生きようとする意志―これこそ物自体として恒久的なもの―に対し、生の努力は空しいものだということが示されているのである(p143)

  • 時間と空間は本質的に無限であるのに対し、個体は本質的に有限である
  • 現在の生は全く瞬間的な存在に過ぎず、物ごとは従属的かつ相対的である

時間の観念性こそ、空間の観念性とともに、あらゆる真の形而上学の扉を開く鍵である(p144)

人は、幸福であったにしろ、不幸であったにしろ、いずれにせよ、それは結局、全く同じことではないか。何故なら、その生涯は、単に持続のない現在の各瞬間から成り立っていたのだし、しかも、いまは既に終わってしまったのだから (p147~)

  • この世の中で、幸福をもとめるとは、無理な注文というものだ
  • だれひとり幸福らしい人間など、この世の中にいないではないか
  • 人は、常に勘違いをし、その一生を賭けて、みずからを幸福ならしめるであろうと思われるなにものかを追い求めている
  • 「幸福」をかち得たとしても、やがては幻滅の悲哀を味わわされるに違いない

わたしたちの生の種々相は、粗い剪嵌細工(モザイク)の絵画に似ている(p148~)

  • あまり近くに寄っては、その趣きがわからず、その美しさを味わうためには、遠く離れて眺めなければならない
  • 人の一生の経過は、おおかた、希望によって愚昧にされながら、死の腕のなかに跳りこむといったもの

死の必然性は、人間が単なる現象であって、物自体ではないこと・真の存在ではないということから、すぐに演繹し得ることである(p153~)

  • わたしたちの生は、あらゆる他の動物の生と同様に、(中略)ふらふらとした存在に過ぎない
  • 無は、もろもろの現象とともに、常に生きようとする意志の内部に存在し、且つ、この意志の奥底にひそんでいるのだ

いままでは、まだ、だれひとり、ほんとうに幸福だと感じた人間は無かったようだ。もし、そんな人があったとしたら、それは酔っぱらってでもいたのだろう(p158)