高坂原論19

■最近の死生観について
昨日の西洋史の試験問題で

キリスト教受容によってヨーロッパ人の「死生観」ないしは「自然観」は大きく変化することとなった。このいずれかについて400字程度で論述しなさい。

というものがあった。事前に自分なりの考えをまとめてきてはいたのだが、いざ本番になると字数に達せずなかなか苦労した。対策はしていたのだが、てっきり200字の論述になるかと思っていたので。

キリスト教受容以前の死生観では生と死は連続性を持つ漠然としたものとして考えられており、北欧神話や殉死、亡霊、法行為といった要素からもその点を垣間見ることができる。キリスト教受容により、魂と肉体、天国と地獄の二分論が導入され、同時に性の抑圧によって独自の死生観を定着させた。生前の行いが死後の救いを決定する罪の文化をもたらし、死は決定的な断絶であり恐ろしいものと人々は意識するようになった。

これで半分程度なので、法行為の部分を補足したり、「生と死の断絶性」により亡霊という存在が全否定され、生前の救いよりも死後の救い(生前よりも死後の方が圧倒的に時間としては長いことに基づく)の重視、喜捨=善行による煉獄での救済等も付け加えて何とか指定の文字数まで伸ばしたのだが。


ここ最近、ボクの中での死生観も大きく変化している。

従来だと「どこかで道を誤ったこの人生を、その場所まで引き返した上でやり直したい」という思いが強かったのだが、最近は「人生はそもそもが辛いもので、常に理想と現実の板挟みでくるしまされるのは当たり前である。それゆえに、生→死の不可逆性を利用してさっさとつまらない人生を終えることこそが最良なのではないか」と思うようになった。簡単に言い換えれば、「もう人間として生まれたくはない」ということだろうか。

そこまでいうのであれば「さっさと自殺を遂行したらどうだ」という指摘があるのもごもっともだろう。けれども、そこに存在すること自体に辛さを感じている人間にとって、何か行動を起こすということは莫大なエネルギーを要する。さながら、今のボクはガス欠の車のような状態である。前向きでも後ろ向き(その前・後ろという基準は誰によるものかが明確に示されていない以上、そういう言葉は大嫌いなのだが)でもなく、自分という存在とその可能性と向き合った結果が今の自分であって、そこに前向きやら後ろ向きという一時的で不確定な気分的な要素を持ち込むこと自体が自分というものの本質を見失っているように思えてならない。

経済学では経済を長期的・経済成長をという視点でとらえる新古典派(ミクロ経済)と短期的・経済変化という視点でとらえるケインズ派(マクロ経済)に二分することができる。そのなかで、ケインズはこう言い残したそうだ。「長期的には我々は皆死んでいる(=長期的な経済成長は重視すべきでない)」、と。経済を人生に置き換えてみた場合、短期的な変化に鋭敏に対応することも、長期的な変化に緩やかに対応することも大事だろう。ただ、ボク自身の素朴な疑問として、「経済は本当に持続可能な成長が可能であるか」というものがある。ボク自身の人生の見通しとして、短期的にも長期的にも下落する一方で、上昇の兆しが全く見えてこない。成長どころか衰退まっしぐらである。

そういうような環境→認知→行動→身体/心理の相互関係の中で、自分という存在を肯定する要因を失ってしまったボクは、空虚な毎日を埋めるために薬の過剰摂取(どうも今の分じゃ効き目がないようなのでより増量する必要があるのだが)によって、しばらくの間意識を混濁させてゆっくりと考える時間が欲しい。なんなら煉獄とやらで自分の考えを振り返ってみるのも悪くはない。

現存在としてここに存在することすら苦痛な僕は、自殺を遂行することもできず、安全性が重視されているお薬を過剰に摂取するという儀式を通じて、救いをも求めるほかない。ボクを救うのは実直な死神か、はたまた気まぐれな天使か。

そもそもの問題として、ボクの意識が全ての元凶であり、これを失えさえすれば問題は丸く解決するはずなのだ。だからこそ、薬やお酒の過剰摂取で意識とそれに伴う理性を麻痺させるという計画を幾度となく行ってきたのだが…… 本当に、お願いです。どんな死に方でも構わないのでボクをこの世から葬り去って下さい。