「本当にわかる哲学」講読4
◆第3章 世界は認識できるのか?-近代哲学の展開-(後半)
○世界を認識する理性の限界
- カント:「純粋理性批判」
- 私の目の前に広がっている世界はすべて私の意識(主観)に現われた世界であり、主観の外側にある客観的世界(物自体)を直接認識することは不可能である
- 客観的世界(可想界)自体は認識できないが、主観的世界(現象界)には他者との共通秩序が存在する
- 人間が世界を認識する仕組み:「感性」、「悟性」、「理性」
- 「感性」:空間と時間という枠組みを世界に与えるもの
- 「悟性」:時間・空間的に位置づけられた対象を秩序づけ(量、質、関係、様相)、何らかの判断をもたらすもの
- 「理性」:物事の存在理由を徹底して問い続け、常に完全なものを目指そうとするもの
- 形而上学的な問い
- アンチノミーが成立する、答えのない問い
- 理性の働きによってもたらされる
- これらの問いは意志や要求の根拠として実践の指標となり得る
- 自由:自己中心的な衝動を抑制し、他者のためになる善きおこない、道徳的な行為によって実現される
- 「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
- カントの功績と問題点
- 主観的世界において他者との共通了解が成立する=客観的認識→コペルニクス的転回
- 認識不可能な物自体の実在性は主観において確信されているに過ぎない
- 道徳的な行為をする義務はあるのか…徳福一致の難問
○世界と私の関係性
●高坂あかなのまとめ
コペルニクス的転回によって新しい普遍性が生み出されるとともに、人々に近代的な道徳観が提示された。しかしながら、自己の幸福よりも道徳法則を優先するこの考え方は、道徳的に生きる=幸福になれるという確証を与えず、神の存在を求めた。認識不可能な客観的対象を意識の外側に想定していたカントに対し、ヘーゲルは意識の場面だけを切り出すことで哲学を飛躍的に進展させた。
弁証法的な認識プロセスによって世界に対する認識は深化し、対象と私との関係を捉え直すことにより、自己という主体を強く意識させる。その結果、自己中心的な自己意識は普遍意志を求める理性へと辿り着く。こうした自己意識の成長は自由への欲望によってもたらされるものであり、自由は他者との関係によって構築された社会によって与えられる。それゆえ、「私」と「社会」のつながり、それぞれの存在意義を考えることは「自由」をめぐる問題に他ならない。