「本当にわかる哲学」講読5
◆第4章 真理はあるのか?‐現代の哲学‐
○世界の存在を信じるのはなぜか?
- 現象学的還元
- 客観的世界が存在していることの証明
- 「目の前の現象が実在している」という判断を保留(エポケー)し、「意識に現れた対象」としてのみ捉える
- 知覚された像は意識の力(意志)によって変えることができない→客観的対象の実在性の確信
- 知覚された像は意味(共通した了解=「本質」)をも有する
- 客観的世界の実在性は直観された知覚像や他者のふるまいによって与えられる
- 形相的還元(本質観取)
- 最初に直観された不確かな意味を、誰もが納得するような本質へと練り直す
○世界に真理など存在しない?
- 近代哲学:意識主義、主体性中心主義、真理主義を前提としている
⇒人間は必ずしも理性的な存在ではない
- 理性主義への批判
○世界は言葉で理解できるのか?
- ウィトゲンシュタイン:「論理哲学論考」
- 近代哲学:外部の自然を写し取る鏡である意識の表象・主観を通じて真理を解き明かせる=認識論的転回
- 分析哲学:客観的世界を写し取っているのは意識ではなく言語である=言語論的転回
- 写像理論(前期ウィトゲンシュタイン)
- 世界と言語は写像関係にある(真理の存在を認める)
- 言語ゲーム論(後期ウィトゲンシュタイン)
- 言語は慣習によって意味が決まる(真理の存在を認めない)
→ネオ・プラグマティズム
○真理と本質
- 観念論的方法批判の検討
- 「意識」に焦点を当てた近代哲学ならびにその流れを汲む現象学への批判
- 「意識」を‘可能にしている’社会構造や無意識、言語に目を向け、意識の根源性を否定
⇔社会構造や無意識、言語といったものも、意識の経験に依存している
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- 意識に焦点を当て、本質観取を通じて普遍性を探ろうとする現象学には一定の正当性がある
- 真理批判の検討
- 「真理」という観念が生の意味や価値の絶対化と結びつくと有害なものになる
→20C前半:世界大戦、ナチズム、スターリニズム……
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- しかし、人々の間には共通了解が成り立つ普遍的なものが存在している→現象学における「本質」(≠「真理」)
- 普遍性を求め、本質を取り出すことに哲学の意味がある
- 私にとっての世界
- 自然科学:徹底した主観の排除と客観の重視→「私にとっての世界」に関する問いに答えを与えてはくれない
- 各人が抱く主観的な「私にとっての世界」の捉え方にも共通の構造が存在するのではないか→実存主義
●高坂あかなのまとめ
ヘーゲルによって完成された近代哲学は、現代に入り2つの方向へ分化していった。1つは理性に基づく客観的世界の認識を可能とする近代哲学の考えを受け継いだ現象学、もう1つは真理の存在を否定する構造主義や分析哲学である。
現象学においては、存在→認識というプロセスをエポケーにより認識→存在と転換することで客観的世界の存在を証明した。そして、概念の本質を取り出す本質観取によって普遍性を提示しようと試みる。
一方で、人間の理性の絶対性を批判する構造主義は社会構造により無意識に理性が規定されるとしたが、その構造主義でさえ近代哲学の真理主義を脱し切れていないとポスト構造主義は主張する。
分析哲学の分野において、ウィトゲンシュタインは言語に着目した。前期の写像理論、後期の言語ゲーム論は背反するが、共に言語が世界を規定するという共通点を持つ。
現象学を批判する構造主義や分析哲学が持ち出す社会構造や無意識、言語といった概念は意識の経験を前提にしたものであり、また、各人の意識から共通了解が得られる普遍性を取り出そうとする現象学は、ハイデガーにより「私にとっての世界」という問題を取り扱う実存主義と結合することとなる。
多様化する世界において真理を見出すことは困難であり、そもそもそんなものが存在するのかすら疑わしい。しかしながら、世界を構成する最小要素であるところの人間には各人に世界との接点をめぐる問いがその存在に内包されているように思う。このように提示される共通の問いに対して現象学は実存主義と接近しながら「人間としての在り方」に普遍的な本質を提示しようとするのである。