「本当にわかる哲学」講読6
◆第5章 私とはなにか?
○「私」の実存を問う哲学
→「私」という問題の全面化、実存的な不安の増大
- 人間の存在本質
- 「絶望」「不安」「孤独」←人間は必ずいつか死に至る
- 「死に至る病とは絶望のことである」→2通りの「絶望」
- 「有限性の絶望」:世間の評価を気にするあまり、本来の自分を失ってしまうことに絶望する
- 「無限性の絶望」:自己の理想が具体性を欠いた抽象的なものになるため、結果的に絶望する
- 可能性こそが唯一の救済者である
- 単独者として神と対峙する「信仰」こそ、可能性の究極のかたちである
○生きることに意味はあるのか?
○私はどのように存在しているのか
- ハイデガー:「存在と時間」
- 「世界−内−存在」:人間(現存在)が「世界の内に生きている」という形で生を経験すること
- 世界の意味は「私(現存在)の関心(気遣い)に応じて」現れる
- 「世界とはなにか」=「私にはどのような可能性が秘められているのか」
- 人間存在の本質
- 「気分(情状性)を了承し、語る」という形式をとる
- 人間は絶えず自分の関心や欲望を気分から了承し、それらに応じて自分の行動やあり方を選び取っている
- 「時間性」:「何であったか」という過去の了承に基づき、「何でありうるか」という未来が選択され、それにより「いま」が生成される
- 人間は可能性を意識することで、その実現に向かって生きることが可能になる
- 「頽落」:絶えず同じ「現在」が続いているかのような倦怠感、そのような人間の在り方
→死の不安を無意識に隠し、その恐ろしさから逃れようとしている
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- 「死の意識」を通じて、「良心の呼び声」により実存的な問いと正面から向き合える
○身体としての私、自由な存在としての私
- メルロ=ポンティ:「身体論」
- 意識(主観)と対象(客観)の間に、対象を意味うけながら、それ自体が対象である両義性を持った「身体」が存在する
- 身体こそが対象を意味づけているのであり、心(意識)はその意味を事後的に理解しているにすぎない
→人間は絶えず現在の自己を否定し、未来に向けて自己を乗り越えようとする存在である
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- 「実存は本質に先立つ」
→自分が何者かであるのかは個人の選択に委ねられている
○私の知らない無意識の「私」
⇔無意識の「抵抗」を生み出すこともある
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- 抑制された欲望(無意識)→性欲→葛藤←道徳心←身体化されたルール(無意識)
- 人間は無意識の欲望に規定された存在だが、それと同時に理性的な判断ができる自由な存在でもある
○私が求めているのはなにか?
→欲望への気付き、無意識の自覚(意識化)という共通点
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- ヘーゲル:人間の欲望は「他者に認められたい」という欲望である
→個人の自由と社会の要請は対立しうるか?
●高坂あかなのまとめ
近代社会は自由の開放と共にアイデンティティの不安をもたらすことになった。そうした主観的な問いに立ち向かうべく、「私」そのものを対象とした学派が形成されることとなる。それが実存主義である。
キルケゴールは人間の存在本質を「絶望」であるとし、可能性こそが唯一の救済者であり、それを「信仰」に求めた。ニーチェは弱者特有の屈折した世界観であるルサンチマンを一蹴し、力への意志による生の肯定を打ち出した。そしてハイデガーは実存主義と現象学を統合し、「自らの可能性を意識し、その実現に向かって生きよ」と説いた。これら3人の思想に共通するのは「死という現象を、将来的にこの身を襲う不可避な現象であると受け入れた上で、自己に秘められた可能性に目を向け、より生を輝かせよう」としている点である。
サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉もやはり自身の可能性に着目し、より生を躍動させんとしている。一方で、フロイトは「無意識」という概念を通じて人間の主体性に疑問を投げかけた。しかしながら、それと同時に人間の理性にも期待をしていた。
実存主義や精神分析においては、「(抑制された)欲望」の自覚こそがより高い実存性をもたらすと考えている。アイデンティティの揺らぎによる内省こそが、実存を確立するための第一歩と言えるのではないか。