「唯心論と唯物論」講読4
◆四 道徳論の展開
- 「利己的」な幸福欲と「非利己性」を要求する道徳はどうして一致するのか
- 法:外面的で苦痛が伴う、強制的な諸制限の内部において自らの幸福欲を他人の幸福欲と一致させる
- 道徳:内面的で心からの、自発的な諸制限の内部において自らの幸福欲を他人の幸福欲と一致させる
- 私の権利は私の法律的に承認された幸福欲であり、私の義務は他人の幸福欲を承認するように私を規定する他人の幸福欲である
- 道徳は我と汝の結合から導出され説明される
- 自分を思惟する我と対立し、諸感官を通じて与えられる汝
- 「自律」と「他律」との結合
- 道徳の原理としての幸福は一面的な幸福ではなく、全面的な幸福である
- 自分自身に対する諸義務:自分自身の自己愛を根拠および対象とする
- 他の人々に対する諸義務:他の人々の人格における自己愛を根拠および対象とする
- 義務は自己拒否であるが、それは他の人々の自己愛が私に命ずるものである
- 道徳は非利己性を要求する
- 私の利己主義とは矛盾し、説明されることのできないものこそ、他人の利己主義と最も美しく調和する
- ex)嘘の禁止
- 騙された者の利益に強く基礎づけられている=騙された者の自己愛
- 道徳は自分自身の幸福を放棄するにしても、他人の幸福を承認しなければならない
- 幸運と不運、福と禍の間にいかなる区別が存在しないところには、善と悪のいかなる区別も存在しない
- 善であるのは幸福欲の肯定であり、悪であるのは幸福欲の否認である
- 行動と善悪
- 福および禍は感性の此方に配分されるが善および悪は非感性的・超感性的なもののかすんだ彼方に配分される
- 「善または悪は常に意志および諸行為に対する関係を意味する」、「善または悪は人格の感覚状態に対する関係を意味しない」(カント)
- 善と悪とは本質的に相対的な諸概念であり、他の人々に対する関係を表現しており、後者は正しくない
- 善であるものと悪であるものを規定するには、働きかけられる者の人格および感覚状態を無視することはできない
- 愛と道徳性
- われわれは両親を最高の存在者のように尊敬すべきか
- われわれは最高の善である生命を両親に負うている
- 愛は「善き意志」であり、人間の幸福欲である
- 愛は他人の幸福欲の充足を介して自分自身を満足させる
- 愛の道徳性は自分自身を幸福にすることによって他の我を幸福にすることである
- 義務と幸福
- 道徳の課題は、自己の幸福と他者の幸福の間の絆を知と意志とをもって、人間の思惟および行動の掟とすることである
- 義務と幸福の争いは、単に自己の幸福と他人の幸福との争いに過ぎない
- 「(賭け事の例えを通じて)道徳律は自分自身の幸福の原理とは異なるものでなくてはならない」(カント)
- 行為の動機は自分自身の幸福に基づくものではないか
- 私の外の我、すなわち感性的な汝は、私の中にある超感性的な良心の根源である
- 他の人々の諸苦痛を気に掛けることができるのは、私自身が苦痛がなんであるかを感覚から知っているからである
- 道徳的な意志=いかなる害悪をもなされることを欲しないという理由からいかなる害悪をもなすことを欲しないような意志
- 道徳律および良心とは上記のような意志であり、単なる幸福欲に過ぎない
- これらの道徳欲および良心によって人間は害悪をなすことを防ぐことができる
*サボったので翌日書いてます