「唯心論と唯物論」講読7
◆六 必然性と責任(後半)
- 規定する根拠とその帰結
- 規定された存在者・個体である私がその中間に位置しており、根拠と帰結を結びつけている
- 私を或る行為へと動かす充足理由は他の人にも同じく作用するとは限らない
- 私自身に対する関係に充足理由を与えている特性・衝動も、他の特性・衝動に対する関係においては極めて不十分で非力な根拠(理由)である
- 「生起するすべてのものは必然に生起する」
- この瞬間において、これら内的および外的諸条件のもとでのことに過ぎない
- ex)悲しみ・猪狩・興奮その他刷毛思惟情緒=一過性のもの
- 人間たちが行為の後にもつ意識・良心を行為の前に持てたならば、いかなる諸行為も存在しないであろう
- いかなる時間、すなわち以前と以後の区別が存在しない場合には、いかなる良心も存在しない
- 行為と時間
- 或る行為が以前には必然的であったとしても、以後には偶発的なものとして現れる
- 他の諸行為において発展する私の能力や前の行為・衝動に起因する私の本質との関係においては偶発的である
- 人間が非難する諸行為、公開する諸行為については妥当する
- 「或る行為をなさなければよかった」と願望することによって、自分がその行為をなさないことができたと信じている
- 願望においてはその行為を必然的にした諸条件が除去されている
- 信仰は対象化された願望・思想のなかで現実化された願望以外の何物でもない
- 人間は拘束されず制約されないことを願望するからこそ、自由である
- 或る行為が以前には必然的であったとしても、以後には偶発的なものとして現れる
- 自由と法則
- 「自由は法則を前提とする。(中略)われわれは法則のなかにわれわれの自由の保証をもっているのである」
- しかし法則こそ最高の威力によって保障され聖化された願望以外の何物でもない
- 法則=神的威力あるいは世俗的威力によって[願望]を履行することが強制され、それを履行しないことが罰せられる願望
- 存在すべきである/存在すべきではないということは、願望された存在/非存在である
- 存在すべきものは願望によって存在することができる
- 「我欲す、故に我思う」
- 法則は人間の自由に対する諸願望の現実化を目的として作り出されたものである
- 「自由は法則を前提とする。(中略)われわれは法則のなかにわれわれの自由の保証をもっているのである」
- 人間の諸行為の規定性と必然性
- 「われわれがなしたことに対して責任と帰責能力を感ずる意識の事実」と「なさないでおくことができただろうという意識の事実」との結合
- 「人間の経験的性格と英知的性格との」間に区別を設けた
- 現象と本質そのものとの間に区別を設けることで自分たちの逃げ道を求めた
- カントの主張
- 経験が自由の実存についていかなる証明をも与えないならば、自由は単に私の思想に過ぎない
- 人間の経験的性格と英知的性格との区別に基づくならば、人間は自由を拒否しなければならないが、責任帰責能力の説明を通じて人間は自由なものと考えなければならない
- ショーペンハウエルの主張
- 「行為は存在に依存する」
- 責任が行為に関係するのは単に外見的に過ぎず、真実には存在に関係する
- 私の存在は私自身に対する私の関係である、私の行為は他の人々に対する私の関係である
- 存在とは対自存在(独立存在)である
- ただ幸福欲だけが人間の諸行為における必然性と自由との間の絆なのである
- それ故に人間たちはできる限り自分たちの生命および財産の諸毀損を避けるため、諸刑罰を科すことにより行為を規定した
- 刑罰が法律を前提とする理由で、各人に「熱心・細心・勤勉に対する義務を課す」とともに「認識能力の使用を命じた」
- 恣意的なものと非恣意的なもの、責任があるものとないものの区別は限界に達しないのか
- 幸福欲はこれらの区別にいかなる顧慮を払うのか
- 諸行為が行き着く先は心情および良心の問題である
- 一般的意志あるは人間
- 私はただ一人の規定された人間であるばかりではなく、また一つの規定された個別的形態における人間一般である
- 私の中に人間の一般的諸特性が少なくとも良心および素質として横たわっている限りにおいて、私の行為は必然的ではない
- 私の規定された本質に対する関係においては、私の行為は必然的である
- =個別的な行為はそのものとしては必然的ではないが、その内実・意義・本質の方から個別的な行為を捉えるならば、それ自身が規定された本質をもっている個体としての私の行為は必然的なものである
- 「行為は存在の帰結である」
- 私はただ一人の規定された人間であるばかりではなく、また一つの規定された個別的形態における人間一般である