「唯心論と唯物論」講読11
◆九 医学科と哲学科の争い
- 唯心論と唯物論の争い
- 哲学的な心
- 神、正義、精神または思惟とは何であるかを問う
- これらの諸問題を取り扱う思惟そのものは認識手段および認識作用として自分にとって対象であり無機的作用として現れる
- 思惟するということは思想の中に存在することを意味し、肉体の外部に存在するということである
- ex)私が遠方を見る場合、光学上、私は私を肉体の外部へと移す
- 思惟の最中に思惟の有機的な諸根拠や諸条件が意識の対象であったならば、脳髄は思惟することができなかったであろう
- 私は思惟する、それ故に私は存在する
- 「私は肉体がない私を思惟する、それ故に肉体がない私は存在する」という命題は思想の中においてであって、現実には成立しえない
- 「私は肉体なしに存在する」=私は肉体のことを思惟していない証明
- 哲学的な心は「我思う、故に我あり、すなわち私は哲学者または思惟する存在者である」という
- 哲学的な心は現実的な存在へ推論する
- さらに心の論理学を心の物理学にし、思惟そのものを何物をも前提としない活動とするため医学との対立を引き起こす
- 究極においては物質の可分性・不可分性が問題になるのではなく、人間の可分性・不可分性が問題となる
- さらには人間の永遠性または時間性へとつながる
- 唯物論と唯心論の争いは人間の頭脳の問題でなる
- 人間の頭脳だけがこの争いの根源であり、目標であり、終端である
- 思惟の基礎にある最も顕著かつ困難な物質である脳髄の問題に決着がついたならば、われわれは物質一般の問題を解決していることであろう
- 神、正義、精神または思惟とは何であるかを問う
◇高坂あかなのまとめ
精神・心という概念に対するアプローチの仕方が医学と哲学では全く異なる。哲学においては心は無意識的な思惟であるとされるが、それは肉体の存在を前提としている不可分なものとして捉えられている。それゆえに極めて物質的な立場が唯心論との乖離をもたらしたのではないか。