気まぐれすーさいど10-1

 ボクが自殺を考えるのは、予め決められていたことなのではないかと、最近は思うようになった。「自殺こそが幸せだ」と信じて疑わないボクにとって、2つの事柄についてじっくりと考えなくてはいけない。その1つが「自殺とは一体どのような行為であるか」ということ。

 自殺について/ショーペンハウエル角川ソフィア文庫

 「すべての人間の一生は、ある精霊が見ている夢。そして、死は、ひとつの目ざめであろう」。欲望や感情など、無限に溢れ出る人間の「意志」が世界を規定し、その意志を実現できない一切の生は苦しみに満ちている、とした偉大な哲学者が、死について深く考察。そこから善人と悪人との差異、生きることの意欲、人生についての本質へと迫る。意思に翻弄される現代人へ、死という永遠の謎を解く鍵をもたらす名著。

 この前、母親*1に電話をした時の事。
 母:「あんた、最近何してるの?」
ボク:「本読んでる」
 母:「何読んでるの?」
ボク:「『自殺について』」
 母:「……」

 電話越しに母親の呆れる様子が伝わって来たが、所謂ショーペンハウエルの「自殺について」を知らない人間なのだから、仕方ない。しかし、母の日に悪口を言うことになるとは予期していなかったが。少なくとも、自殺(に限らず死)と向き合うことは、裏返せば生に対する葛藤に他ならない。「いくらなんでも死ななくても」とか「生きていればそれでいい」という言葉を掛けられることもあるが、ボクからしてみれば「自分の在り方についての思考を放棄しろ」と言われているのと同じこと。この言葉を、ボクを自殺に向かわせるきっかけとなった出来事の中心人物の耄碌老人が口にするのだから、全く片腹痛い。
 「異邦人」の記事で迷った末に書かなかったことだが、ボクの休学届は教授会で何やら審議されたらしい。耄碌老人がどのような弁明をしたのか知らないが、ボクは書面のたった2行でしか発言する機会を与えられず、結果としてボクが「異邦人」として断罪されたのであろう。やはり、他人や社会に関わるべきじゃない。

 こほん、少しだけすっきりしたので話を元に戻す。物憂げな少女の表紙に騙されてはいけない。*2曲がりなりにも哲学の本であって、読みにくさ・難解さは相変わらず。こういうものは、時間をかけて反芻しながら、じっくりと読み解いていくものだ。なので、今回は10回に分けて読み進めていくので、タイトルも枝番付きに。

 今日は「死によって真の存在は滅ぼされるものではないという説」について。死の訪れに嘆き悲しみを抱くもの、安らかな喜びを抱くもの、これら二つの考えは正しい根拠に基づくとした上で、次の言葉。

 いずれにせよ、経験的意識の働いているところには、単に、罪業となることがおかれてあるということだけではすまず、さらに、この世という―迷いと気まぐれと悪だくみと愚かさとが支配する―領土から現れてくるすべての災禍もつきまとい、最後には、死が必ずきまってついてくる。死はいわば生命を抵当にした借金のようなものであり、そのほかのいくぶん不確かではあるが起こってくるもろもろの災厄もまた、同じようなものである。
(「自殺について」P9)

 死を否定せず、いずれ起こりうることとして粛々と受け入れようとする姿勢は後の実存主義に通ずるものがあるような気がした。

*1:ムルソーに言わせればママンになるか そういや、今日は“ママン”の日でありましたな

*2:本当にボクはこういうものに親和性が高いとつくづく思う