高坂原論

 2週間ほど、実家に戻っていた。ポストに溜まっていたチラシを片づけていると、残暑見舞いの返事が2通。消印を見ると帰省前に届いていたようだ。待てど暮らせど1通しか返事が来なかったと思い込んでいたので、受け取った喜びもひとしおである。

 今後の進退を決めるに当たり、さしあたり出すべき書類が2通ある。そのうちの片方が近々提出期限なので、長居を勧める両親の言葉を振り切って戻って来たのだが、それは建前上の話。5日発売の某コミックを某オタク系ショップで買うと特典のポスターが貰えるのだが、「貰いそびれる訳には……」という高度な政治的判断が働いたのは言うまでもない。

 帰省中、親と話をする機会があった。その中で、いくつかの重要な議論が交わされたので、その記録など。

○ボクという存在の発生原因にはボクは関与しえないという件について
 「なんでそんな事を言われなきゃいけないのか」という反論も受けたが、別に親を泣かせなくてこんなことを言っているわけではない。ただ、ありのままの事実を言っているに過ぎない。紆余曲折あって、「ボクの生にはボク自身は関与できないが、それは結果として受け入れているつもりだ。それと同じく、理性に基づくボクの死には両親は関与できず、同様に受け入れざる他ない。」という結論に落ち着いた。

○散々「死ぬ」と言っておきながら死なないのは卑怯ではないかという批判について
 「死んでほしいわけではないが」という前置きがあっての批判なのだが、これはさすがに反論のしようがない。ボク自身、早く死にたいと願ってやまないし、それが最良の方法だと信じてはいる。けれども、「人生は素晴らしいものだし、そうあるべきだ」という幻想が皮肉なことに抑止力となって作用し、現にボクが存在しているのだ。

○「客観的にみて、死を望むのはおかしい」という意見について
 そもそも、「客観的」という言葉自体がボクからしてみれば「主観」の支配下にあって、「客観的」たる訳がないのだ。「客観的」という言葉を選び、口から発せられるその一連の行為は何に基づくかと言えば、主観の他ならない。自分の長所を謙虚と言う人間が謙虚ではないのと同じことだ。
 加えて、「死」という現象に対する認識がボクは違うようだ。ボクらの生は肉体と精神のこの2つの併存の上に初めて成り立つものである。さらに、肉体と精神は「存在しよう」とするホメオスタシスを有する。死はこのどちらかが失われたときに起こる現象であり、老衰や疾患などによって肉体の維持が出来なるケースが精神の場合に加えてより身近なものであるからして、肉体の損失による死は理解しやすい。ただ、ボク自身の肉体は幸か不幸か健康であるということであり、肉体が維持できないことに由来する死ではないボクの死は受け入れがたいらしい。
 ボクからしてみれば、ボクが骸と化す原因を詮索したところでボクが生き返るわけじゃなし、ただ淡々とその事実を受けれるのが最もスムーズなことだと思うのだが。

○ボクは病気であるか否かという点について
 ボクの死が直近に起きたならば、その死が肉体に直接由来するものではない可能性が高い。それが精神に由来するものとして、果たしてボクは精神的な病気であろうか? そもそも、肉体的な病気というものはホメオスタシスを阻害する現象と言える。ここで重要なのは、肉体的なホメオスタシスは放っておいても作用するということである。ボクの肉体はボクの精神が「肉体を維持せよ」と命令しているわけではなく、理性とは対極にある本能的な働きによって肉体は維持されるのである。
 片や精神的なホメオスタシスの源泉は自我の構築、すなわち理性的な働きに他ならず、そこで重要な働きをしているのが認知なのであろう。これについては考察の途中なのでこれくらいに。

○「もっと楽な生き方をしたら良いのではないか」という提案について
 辛いというよりも、上手く事が運ばないことに対する苛立ちの方が強いのだが。ボクが体感しうる生き方はこの1通りにほかならず、この生き方が楽なものかそうではないものかをこの身で比較することが出来ない以上、その提案についてどうこう言うことは出来ない。これは仮定なのだが、こういう生き方だからこそ、「ボクがボクたる根拠」になっているのではないか。

 哲学をもう少しかじってみようかという企みがまた再燃してきた。哲学に限らず文系の就職は厳しいと聞くが、そもそも就職戦線での切り札である新卒という手札を2年後にもう一度手に入るだろうとその辺に投げ捨てしまい、その当ても外れ、もともと不利な立場には変わりない。むしろ、「詰んだら詰んだで、その時は死ねばよいのだ」と若干の開き直りもあることだし、下らない人間の下で自らの信念を犯し、犯されるよりかは、よほどましではないか。今の自堕落な生活も正直嫌いじゃないのだが、どうせ社会から摘まみ出されるのであれば、自らの意思で散って行った方が格好いいとボクは思うのだが。

 認知行動療法によると身体・感情・認知・行動・環境が密接に関係していると考えている。それによると、おそらくボクは物事を曲解する捻くれた認知の持ち主になってしまい、「考え方を変えましょうね〜」などと言われるのだろう。事実、前のカウンセラーは認知を変えようとしてきた。けれども、問題なのは認知の根源である現実であって、認知を変えたところで現実は好転などしない。むしろ、現実を変えなければ何の意味がないのだ。何でも楽観的に考えるほど能天気じゃないし、そういう生き方を望んでいもいない。「金閣寺」の一節に「世界を変貌させるのは認識か、行為か」という件があったのをふと思い出した。

 世界を変貌させるために自らの死という選択。それは確定・不確定の2つの領域を人間は維持できるという話になるのだが、それはまた別の機会に。