梶井基次郎/檸檬

 昨日、今読んでいる「三四郎」がそろそろ終盤に差し掛かって来たので、次の読む本を探しに本屋に出かけた。

 角川文庫が出している手ぬぐい柄がモチーフになっている作品群のいくつかを持っており、ゆくゆくは揃えたいと思っていたので、その中から目についた「檸檬」を手に取ってみた。目次を開くと表題の「檸檬」はわずか10ページ程度しかなく、短時間で読めそうだったので、その後買う前提で立ち読み。

 奇妙で理解しがたいなという感想。事前に某掲示板に書かれていたあらすじを目にしており何となく内容は知っていたが、そのまま過ぎて苦笑い。

基地外がイライラしている

檸檬が爆弾だったらなぁ、と本屋で妄想

本の上に檸檬を置く

スッキリして帰る

また別の意見。

全部
得体のしれない不吉な塊
のせいです

 主人公の行為に滲み出るささやかな狂気。他人事だと思って嘲笑は出来ない。これも昨日の出来事だが、雨でぬれたタイルの階段を足早に降りていた際、滑って臀部と左肘を強打した。この時、いっそ脳漿でもぶちまけた方がよほど良かったのではないかと思った。
 今日もまた、傘が手放せないぐずついた天気模様。精神的な具合の悪さも相まって、一刻も早くねぐらに帰りたい。普段に増して、歩を進める速さを増したいところだが、歩道に開く色とりどりの傘の花が互いに干渉しあって、それも叶わない。のろのろと横に広がって歩く連中を傘の先端で後ろから突き刺したい衝動に駆られる。
 エスカレーターに乗った時もそうだった。本来は立ち止まらずに乗るべきだろうが、律儀に従うほどボクもそこまで従順で無い。前の二人連れが横に並び、しぶしぶ徐々に高度を下げざるを得ない。これもまた自分のわがままを満たせないことに起因する酷く横暴な衝動なのだが、片方を蹴り飛ばしたらさぞかし気持ちよいのだろうと思った。

 理性だとか常識といったものによってあるべき姿を規定しているからこそ、それから逸脱するものが狂気として頭をよぎるのだ。狂気を狂気と認識出来ている時点で、それは真の狂気ではない。真の狂気、それ自身は狂気とすら認識することは出来ないのだ。
 人は狂気と寄り添いながら生きている。それが幸せなことなのか、不幸せなことなのか、ボクには分からない。