高坂原論5

■Breakthrough

 ひたすら具合の悪い一日だった。昨日階段で足を滑らせて殴打した臀部がは痛む。ここ最近は夜中に目が覚める事が度々あるが、二夜連続で数時間ごとに目が醒めては寝た気がしない。快適な睡眠を実現するための薬も出して貰ってはいるのだが、今日こそ安眠できるのではないかというささやかな期待と、安眠し過ぎて寝坊したら困るという妙な生真面目さで飲めないでいる。
 1限の宗教学。レポート課題の日が近づいてきたので昨日の晩、珍しく家で勉強した。教科書を読んで、ノートに要点を整理しておくだけなのだが。その中で「宗教に良い宗教も悪い宗教も存在しない」という一節があった。キリスト教や仏教=善、怪しげな新興宗教=悪と捉えがちだが、そもそも何を持って善悪とするのか。そういった見方はナンセンスであるというような内容で、納得も良く。それでは、いままでのそう言った認識は何を根拠にしていたのだろうか?
 授業の終わりに、H先生と軽く話した。度々相談に乗ってもらうばかりかお昼をごちそうになる位、お世話になっていて、ボクの希死念慮についても知っている。去り際に「この先数年という見方じゃなくて、30、40でもやりたいと思うことを始めても遅いことはないよ」と言葉を掛けてくれた。

 しかし、それではだめなのだ。遅い、遅すぎる。本来であれば、社会との接点を広げつつあるべきこの時期に、それが出来ないでいる自分。人間は然るべきに然るべき事を成し遂げなくてはならないのだ。だからこそ、周りと同調することが必ずしも良いことだとは思わないが、それが可能ならばその流れに乗ったほうが、逆らうよりは楽なはずだ。
 空き時間、大学から歩いて10分程のファミレスへ。この希死念慮は病理的なものか、はたまた信念的なものか。おそらく、後者であろう。先日会ったカウンセラーに「あなたマゾなの?」と言われたことを思い出した。しかし、宗教の修業も言ってみればマゾヒズムに基づく行為に他ならないし、むしろその行為をマゾヒズムの域から昇華させることが宗教的行為の目的ではないだろうか。そんなことを考えていたせいもあって、得体の知れぬ焦燥感がわなわなと蠢きだし、本能が薬を要求し出す。
 さすがに授業の前に薬を口にしてしまったら、まるでボクがおかしい人間のようではないか。そういう認識を持ててしまっている時点で、おかしくはなれないし、完全に壊れてはいないのだ。生き長らえることに抵抗を覚えつつ、午後の授業に出るため大学に戻る。認めたくはないが、更に数時間生き長らえてしまう。
 話は逸れるが、「金閣寺」でも「人間失格」でも「三四郎」でも学生は皆サボっている。ボクには出来そうもない。サボることをサボっているとも言えなくはないが、それは詭弁に過ぎないことくらい、おかしいボクでも理解できる。

 3・4限は政治学。選挙と選挙制度の違い。小選挙区制と中・大選挙区制ではどちらが望ましいのか。結局、考えてみたところで、どちらにも利点・欠点が存在するわけで、絶対的に正しい制度など存在しえないことに気づいた。制度だけじゃない、行為だってそうだし、もっと言えばボクという存在とて例外じゃない。
 ボクという存在に投げかけられる賛否両論。自分自身が否定側に回ることで、ボクの死が絶対的な正しさには成り得ないか? 少なくとも、両親がボクの存在を認めている時点で自殺は全肯定されない。どうしたものか。
 授業が終わることには息苦しくなってきたので、帰りの電車で1錠食む。口にしたその瞬間、心が軽くなった気がした。少なくとも、薬を取り入れるという行為は化学物質の作用だけを期待するのではなく、自身が薬を求めているというおかしさを認めるという、ある種の儀式に他ならない。今は薬が効いてきたのか、だいぶ落ち着いてきた。


 大学に掲示されいた簿記の試験に関するポスター。鹿のキャラクターが可愛らしい。「Breakthrough」、今の自分に必要な行為はこれだ。目の前に立ちはだかる障壁は乗り越えてゆかなくてはならない壁なのか、外界を拒絶し自分の世界を気付き上げるための絶対的な境界か。